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「空海の企て」(山折哲雄著)&「根来寺を解く」(中川委紀子著)、選書2冊を読む

角川選書空海の企て」(山折哲雄著)と朝日選書「根来寺を解く」(中川委紀子著)を読了。

一応買ったものの、そのうち読もうと放置していた真言宗系の選書本2冊を、お盆期間から読み始めてようやくやっつけた。

前者は真言宗の開祖、天才かつスーパースター空海さん(弘法大師)と重要なパトロンであった嵯峨天皇との関係をあらためて教えられ、後者はそんな「初代」が大天才だったゆえに後裔があまりパッとしない中、覚鑁さん(興教大師)がちょっとした中興の祖っぽいポジションにつくプロセスでパトロンだった鳥羽天皇の役割の重要さを教えられた感じ。

興教大師覚鑁さんは高野山直系というわけでなく仁和寺系の人。その人物がパトロンの力を利用しつつ?「真言宗の大聖地」での地位を一度は固めたわけだから、「保守本流」を自認していた系統にとっては面白いわけはなく、派閥抗争の末に「下山」を余儀なくされ、その下山した場所(根来寺)はのちに戦国大名を脅かしうる勢力にまで発展し、やがて「紀州攻め」をくらう・・・という通り一遍の印象しかなかった。

だが、覚鑁さん系統の弟子筋の人々(頼瑜さんなどなど)の活躍がなければ、江戸時代以降の関東地域での真言宗系(真言宗豊山派真言宗智山派など)の寺院の展開っぷりが今とは或いは違っていたかもしれない?可能性を思うと、一連のエピソードにも後世からすると意味があったのかもしれない・・・と解釈出来なくもないのではなかろうか?

それに覚鑁さんのあとの醍醐寺系統との連携なども重要だったようだ(室町幕府との関係性において)。

成田山新勝寺内のとある祈祷所に、弘法大師空海さんを中心にして、両サイドに興教大師覚鑁さんと理源大師聖宝さん(醍醐寺開祖)の像が並んでいるのだが、その配置の理由が腑に落ちたのであった。